朝の散歩中、ラジオを聞いていたところ、生島ヒロシさんの「おはよう一直線」という番組の中で、作詞家の永六輔さんが、「誕生日」のことについて興味ある話をしていました。
永六輔さんはご存知の通り、作曲家の中村八大さんと組んで、「上を向いて歩こう」等数々のヒット曲を出した人で、ラジオでも活躍されている人です。
その話というのは、永さんは、映画解説者の淀川長治さんと懇意にしていたそうですが、たまたま、永さん、淀川さん、そして歌手の「さだまさし」さんが会合で合い、話をしているうちに、偶然にも3人の誕生日が4月1日であることがわかったそうです。
そこで4月1日が近づいた時に、永さんが「さだまさし」さんに呼びかけ、淀川さんの誕生祝をしようということになり、永さんが淀川さんに、「誕生祝にご馳走します」と誘ったところ、淀川さんから丁重に断わられ、さらに「誕生日」のことについてお叱りを受けたということでした。
それは、淀川さんが子供の時、父親が妻、つまり淀川さんのお母さんという人がいながら、同じ家にお妾さんを引き入れ、こともあろうにそのお妾さんの世話をお母さんにさせていたということです。お母さんはその仕打ちにじっと耐えながら、淀川さん達子供を育てていたということですが、まるで地獄を目の前に見ているようで、淀川さんにとっては、父親を憎むというよりか、お母さんが可愛そうでたまらなかったそうです。
このような家庭であったので、淀川さんは子供の時から、お母さんに対する感謝の気持ちを強く持っており、特に自分が誕生した時に最も苦労したのは、お母さんであると思うようになり、成長してからは、自分の誕生日の時は、必ずお母さんに対し、「お母さん、私を産んでくれてありがとう」と感謝の気持ちを込めたお礼を言い続けたということです。
また、淀川さんは、一生独身でしたが、その理由について、「自分を産んでくれたお母さんに寂しい思いをさせないため、お母さんを看取ってから結婚しようと思っているうち、お母さんが長生きしたので、そのチャンスを逃した。しかし、悔いはない。」とも言われていたそうです。
さらに、淀川さんは、「誕生日は自分以外の人から祝ってもらうものと、勘違いしている人が多い。誕生の時、一番苦労したのはお母さんであることを多くの人に知って欲しい。このことをラジオ等を通じて多くの日本人に訴えてください。」と永さんに託したということでした。
その話を聞いて、なんて薀蓄(うんちく)のある話であると感心したところでした。淀川さんは、テレビの洋画解説には欠かせない人で、黒くて太い眉毛に黒打ちのメガネをかけ、「サヨナラ、サヨナラ」と言いながら、画面から消えていく様は、今でもはっきり覚えています。
私もこれまで、自分の誕生日には母親に対し、感謝の気持ちを込めたお礼を言っていませんでしたが、これからは母親が生きている限り、お礼を言い続けるつもりです。






