校長のひとり言ブログ|都城自動車学校

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2003年05月 アーカイブ

2003年05月01日

常識

 「常識」とは、辞典によれば、健全な社会人なら持っているはずの(ことが要求される)ごく普通の知識・判断力ということだそうですが、最近の若者の言動を見ていますと、ときどき、「常識」がない人を見かけることがあります。
 私が通勤に利用している日豊本線は、最近は随分と合理化され、駅員がいない無人駅がかなりあります。そのせいでしょうか、電車内で乗車券を持っているかどうか調べる車掌による検札が行われています。小・中学校等が夏休みに入って間もない頃、自動車学校からの帰りの電車の中で、こんな場面に遭遇しました。
 電車が山之口駅から三つ目の田野駅に着くと、学校帰りの高校生が何人か乗り込み、私の隣りの席にも女子高校生が二人座ったようでした。私は本を読んでいましたが、隣りの席から、「○○ちゃん、私よ。わかる。今どこにいるの。」という大きな声が聞こえてきたので、隣りの席を見ると、二人とも携帯電話で友達と話を始めたようでした。もちろん、電車が駅を出発する時、車内放送で、「携帯電話のご使用はご遠慮ください。」とありましたが、二人ともその放送には全くお構いなしの状態です。
 田野駅を出発してから間もなくして、「ただいまから乗車券の確認をさせていただきます。」という車内放送があり、やがて私達の車両に車掌が来ましたので、ポケットから定期券を取り出し、車掌に定期券を見せ、私の検札は終わりました。
 読みかけていた本に再び目を通し始めた時、隣りの席から車掌と女子高校生の話す声が聞こえてきました。その声は、「この定期券は期限が切れている。」という車掌の声でした。見ると、二人のうち一人の女子高生の定期券の期限が、夏休み前の「7月19日」になっていました。
 車掌は、その高校生に「期限が切れていたのに気付かなかったのね。」と聞きますと、「いえ、知っていました。」と悪びれた様子もなく、平然と答えたのです。これには車掌も驚き、「それでは、お金を持っているの。」と聞くと、「お金は130円しか持っていません。」と言って、財布を取り出し、中からお金を取り出しましたが、本人が言うとおり中身は130円のようでした。
 チラッとその定期券を見たところ、乗車区間は「清武駅~田野駅」となっていましたから270円は必要なのです。車掌は、「あのね。期限が過ぎた定期券は使えないのよ。お金が足りないのに、電車に乗ったら無賃乗車になるよ。これは電車に乗る場合の常識だと思うんだけどね。」と丁寧に、まるで小さな子供に言って聞かせる口調で話し掛けていました。
 ところが、その女子高生には、その意味が理解できないのか、「清武駅には駅員さんがいるので話をして、後でお金を持っていきます。」と答えたので、これには駅員もビックリしたようでしたが、再度丁寧に説明したところ、ようやく納得し、携帯電話で母親に連絡している様子でした。
 その子は、特別、知能が遅れているようでもなく、ごく普通の女子高生に思えたのですが、こんな「常識」のない若者もいるのですね。それにしても、乗客の中にはいろんな人もいるので、対応する車掌さんも大変だなと思ったところでした。

2003年05月02日

初心

 ことわざに「初心忘るべからず」という言葉があります。広辞苑によると、「学び始めた当時の、謙虚な気持ちを忘れてはならない。」という意味だそうですが、私達は生身の人間ですから、この気持ちをいつまでも持ち続けることは、大変難しいものです。私が体験した中で、この「初心」をいつまでも失わずに実行している人がいます。
 その人の名前は、「佐藤市雄さん」と言います。若い人は殆どの方が知らないと思いますが、佐藤さんは、元旭化成陸上部の選手で、現在は沖電気宮崎陸上部のコーチをしています。旭化成陸上部時代は、九州一周駅伝や実業団駅伝等で大活躍した人で、ヒゲを伸ばしていましたので、「ヒゲの佐藤」と呼ばれていました。
 私が佐藤選手を知ったのは、彼が高校生の時でした。宮崎市の県営陸上競技場で開催された陸上選手権を見に行った時のことです。ほとんどの選手がスタート前になると、それまで着ていたトレーナーをその場に脱ぎ捨てたままにしているのに、一人だけきちんとトレーナーをたたみ、それからスタートラインに向かう選手がいました。その選手を見ていると、次のレースの時も同じ仕草をしており、興味があったので、翌年の大会を見ていたところ、やはり同じ仕草で、脱ぎ捨てたトレーナーを綺麗にたたんで試合に臨んでいたのです。
 その高校生が佐藤市雄さんだったのですが、彼は県内はおろか、九州でも名の通った中・長距離の選手で、彼を育てた監督さんから「佐藤は初心を忘れない男だ。」と人伝に聞いていましたので、それからはすっかり彼のファンとなり、彼が旭化成の陸上部に入り、九州一周駅伝で宮崎を通るたびに応援を続けていたのです。
 その佐藤市雄さんも現役を引退し、旭化成の監督をしていた広島日出国さんと一緒に旭化成を退部し、沖電気宮崎陸上部に移籍しましたが、数年後、宮崎市内のスナックで飲んでいたところ、偶然佐藤市雄さんが客としてそのスナックに入ってきたのです。
 佐藤市雄さんは、監督の広島さん達と一緒でしたが、広島監督や客の人達とは同じ席に座らず、一人だけ店の入り口の側に席を取り、広島監督等が帰るまでジッとその席で待ち続けていたのです。どうして佐藤さんだけ席を別にしていたのかと不思議に思い、それとなく店のママに聞いてみたところ、「佐藤さんは、監督さんと見えたときは、いつもああですよ。監督さんが帰られるまで1時間でも、2時間でも待っておられますよ。そういう佐藤さんを信頼されているのか、広島さんと佐藤さんはいつも一緒ですよ。いつも感心しますね。」と説明してくれました。 その言葉を聞き、若き日の佐藤さんを思い出すとともに、「やはり初心を忘れない男だったんだ」とスポーツマンらしい佐藤さんに感心したのです。
 人間ともすれば、有名になればなるほど、知らず知らずのうちに天狗になるものですが、佐藤さんのようにいつまでも「初心」を忘れず、謙虚な気持ちを持続したいものだと痛感したところでした。

2003年05月06日

予感

 先日の昼休みの時間、ポカポカ陽気に誘われ、職員の人達と喫煙所となっているベンチに座り、談笑している時でした。何気なく職員室の窓ガラスの方を見たところ、ハトが1羽飛んで来て、電線に止まる姿が映りました。その電線を良く見ると、なんと私が座っている直ぐ上の電線ではありませんか。その瞬間、私は、「ハト→電線→フン」という構図が出来上がりましたが、それは、散歩する時、電線に止まっている鳥を観察することがありますが、鳥は電線に止まると直ぐフンをするのを知っていたからです。
 私は「ハトからフンをかけられる。」と感じ、「危ない」と言ってベンチから立ち上がった瞬間、私の左横に座っていた元吉副校長が、「アッ」と叫びました。元吉副校長の方を見ると、肩の所に白いハトのフンが付いていたのです。おそらくそのハトは私の直ぐ上の電線に止まり、私の頭めがけてフンをしたのでしょうが、私が危険を感じて立ち上がったので、的が外れて元吉副校長の肩に落ちたものと思います。それにしても元吉副校長には気の毒なことをしました。
 人間は誰しも、このような「予感」を感じることがありますが、私は、「予感」が見事に的中し、川で溺れている子供を救出したことがあります。
 それは、今から約26年前の昭和52年10月のことです。その当時、私は警察学校の教官をしていましたが、初任科生20数名を引率して北海道内を研修旅行中でした。昼食を旭川市郊外で済ませ、観光バスに乗り込もうとしたところ、それまではバスの右前部に座っていたのですが、何か「胸騒ぎ」がして中央部の左側の窓際に移動しました。その「胸騒ぎ」は何だったのか良く説明できませんが、「何かが起こる」というような「予感」でした。
 やがてバスは出発し、旭川市内を流れる忠別川にかかる旭川大橋に差し掛かったとき、それまでの「胸騒ぎ」が「川で何かが発生する」という具体的な「予感」になったのです。バスが橋の中付近まで進んだ時、対岸の堤防上で、ジッと川の流れを見ている赤い服を着た女の子の姿が見えました。その間の距離は約200メートル位ありましたが、女の子は動こうとはせず、そのような姿が私には異常に思えたのです。
 女の子の視線を追って川の方を見た瞬間、急流の中に何か黒い物が見えたような気がしました。いえ、私にはその黒い物が人間の髪の毛に思えたのです。何かの間違いではないかと自分の頬をつねりましたが、夢ではなかったのです。
 そこで、「人が溺れている、バスを止めて」と大声で叫び、全員でバスから降り、川の中で溺れていた4歳の男の子を見つけ、私が人工呼吸を施し、無事蘇生させることが出来たのです。
 その翌日、HBCのインタビューがあり、「200メートルも離れていたのに、よく子供を発見できましたね。何故ですか。」という問いに、「川の中で何かが起こるという予感がありました。」と答えたところ、アナウンサーから笑われましたが、私は今でもそのとき「川で何かが発生する」という「予感」があったものと信じています。

2003年05月07日

皮下脂肪

 毎年、宮崎市内にある宮崎第一高校では、市内の白浜海岸で寒中水泳を行っているそうですが、先日、その様子がテレビで放映されていました。寒中水泳に参加していたのは全員3年生で、準備体操のあと寒い海の中に元気よく走っていく様子は、見ていても若さを感じました。
 ところが、いざ波が押し寄せるいかにも冷たい海の中に入っていく高校生の姿を見ていると、思わず、こちらまで風邪を引きそうになりました。
 その様子を見ていて気付いたことが一つありました。それは、この寒中水泳に参加したのは、男子生徒だけでなく、もちろん女子生徒も参加していたのですが、冷たい海の中にいることが出来ず、いち早く岸の方に向かって戻ってくる姿のほとんどが、男子生徒だったのです。女子生徒は、お互いに水を掛け合いながらはしゃぎまわっており、とても楽しそうに見えました。
 このときは、たまたま男子生徒の方が、いち早く岸に戻ってきたものとばかり思っていましたところ、数日後、テレビで県外地の寒中水泳の様子が放映されていましたが、そこでも宮崎と同じ光景が見られました。冷たい海中に長く浸かっていたのは女性で、男性は我慢が出来ないようで、直ぐに岸に上がってきていました。
 どうしてだろうかなと思っていましたところ、あるラジオ番組でその理由が放映されていました。それは、「皮下脂肪」のせいで、男性の皮下脂肪は平均6ミリですが、女性の皮下脂肪はなんと男性の倍以上の14ミリあるそうです。これで女性が寒さに我慢強いことが判りました。そういえば、海の中に潜って貝等を取るのは女性の海女ですし、寒い冬でも女性はスカート姿で平気で過ごしているようです。もし、男性も冬の寒い間、半ズボンを着るようにということになれば、たちまち、男性のほとんどは風邪を引き、仕事にはならないでしょう。
 私の仕事の都合で、私達家族4人は暖かい宮崎県の日南市から、一転して寒い福岡市に転勤し、長男は市立板付け小学校に1年生として入学しましたが、それから再び宮崎市に転勤するまでの2年間、晴れようが雨が降ろうが、長男は半袖シャツに半ズボン姿でした。途中見ていても寒そうだったので、「ズボンをはくか。」と言いましたが、長男は「頑張る。」と答え、とうとうやり通しました。
 その頃のことを振り返り、後年、長男に「お前は寒い福岡で半袖シャツに半ズボン姿で過ごしたぞ。」ということを伝えたところ、長男は、「今ではとても出来ない。」と苦笑していました。
 このように訓練さえすれば何とか出来そうですが、所詮男性は、女性より皮下脂肪が少ないわけですから、やせ我慢しない方が得策のようです。

2003年05月08日

おしゃべり

 最近の成人式の様子を見ていますと、何処でも参加した成人達が会場内に入ろうとせず、会場外でおしゃべりに夢中になっているようです。また、例え関係者から促されて会場内に入ったとしても、会場内でおしゃべりを続け、挙句の果てには、クラッカーを鳴らしたり、ヤジを飛ばして式の進行を妨害する等の騒ぎが毎年のように行われており、テレビでこのような光景を見るたびに、苦々しく思っているのは、おそらく私だけではないでしょう。
 成人式では、中学校を卒業してから5年ぶりに顔をあわせる同級生もいることですから、おしゃべりしたい気持ちもわからないではないのですが、あまりにも式の重要性を認識せず、いつまでもおしゃべりを続けるこれら成人の姿を見ると、これから先が思いやられます。
 このように、最近の成人式の最中におしゃべりをするのは、どうもこれら成人になった人が、子供の時の「しつけ」がされていなかったのが、原因のように思えてなりません。私の子供の時から大人になるまでの、例えば入学式だとか、卒業式、講演会等の行事があるときの様子を振り返ってみましても、こんな光景は全くありませんでした。
 私が出席した成人式を思い出してみても、出席した成人のほとんどが、式の最中私語を話す人が誰一人おらず、スムーズに式が進行したように記憶しております。小学生の時から授業中は「静かに先生の話を聞くもの」と教えられていましたから、自然と式の最中はおとなしくしていました。おしゃべりをしようものなら、たちどころに先生のビンタが飛んで来ていましたから、私語を話す人等は見られませんでした。
 ところが、ある機会に小学校低学年の授業風景を見たことがありますが、驚いたことに、先生が授業中なのに、後ろの席を振り返りおしゃべりをする子供がいるのです。私達の子供の時だったら、たちまち、「コラ、何を話しちょっとか」という先生の怒鳴り声が聞こえて来ていましたが、そのときの先生は、さして気にとめようとせず、おしゃべりを続ける子供を注意しようとする素振りもありませんでした。女の先生だから注意しなかったのかなと思っていましたが、後で聞いてみますと、今では幼稚園の時から、誰がいようがいまいが、お構いなしにおしゃべりを続ける子供が増え、中には、授業中、先生の話を聞かず、教室内を走り回っている子供もいると聞き、ビックリしたところでした。
 このような環境で育ったわけですから、成人式でおしゃべりをするのも当然かなと思っていたところ、まだまだその上手をいく人が新聞に掲載されていました。
 報道によると、その人は、県立山口大学の教授で、大学入試センター試験の試験監督中、同席していた他の試験監督官に、自分の健康状態等について数秒間、話し掛けしたそうです。試験中で、受験者は一生懸命問題と取り組んでいるわけですから、当然試験監督官同士の話し声が聞こえてきたのでしょう。受験生の一人が、「先生、静かにして欲しい。」と抗議したということです。
 その夜、受験生の親や高校関係者と名乗る人からの抗議の電話が相次ぎ、翌日、その教授は、試験監督官から外されたそうですが、お手本を示さなければならない人がこんなことでは、本当に困ったことです。

2003年05月12日

雀のエサ

 宮崎市内にあります宮崎神宮の前に、「宮崎自転車店」という屋号の自転車店があります。この自転車店は、創業50年を超える宮崎市内でも老舗の自転車店です。現在は2代目ですが、兄弟二人で仲良く自転車の販売・修理をしています。
 私がこの店で自転車を買ったのは30年前ですが、その後、かれこれ10台以上の自転車を買っており、昔から年賀状のやり取り等親しく付き合いをさせてもらっています。また、私は都城自動車学校に通う時、自宅から宮崎駅までの間、自転車を利用していますが、宮崎自転車店は丁度その真ん中付近にありますので、学校からの帰りは、必ず宮崎自転車店に立ち寄り、世間話をすることにしています。
 冬の寒い夕方、いつものように宮崎自転車店に立ち寄り、店の兄弟と話をしていたところ、弟さんが店の表を見ながら「催促に来ているが、そろそろやろうかな。」と言い出したのです。店の前には誰もいませんし、何のことかなと思いながら、ふと店の前のガラス窓を見たところ、そこには、3羽の雀がおり、店内の様子を伺っている様子でした。
 そして、その雀達は店内にいる兄弟の姿を見つけたのか、ガラスに近づいて下の方をコツコツとたたき始めたのです。私はその仕草を見ましても、雀達が何をしているのかわからず、不思議そうにしていますと、弟さんが、「雀達が早くエサをくれと催促しているんですよ。」と説明してくれましたので、やっとそのわけが判ったのです。弟さんは、店内の隅からコップに入った米粒を取り出し、「さあ、オヤツの時間だぞ。」と言いながら、米粒を店の前のコンクリートの上に3ヶ所に分け置いたのです。
 すると、1羽の雀が直ぐ飛び降りてきて、エサとなる米粒の側に近づいて来ました。それを見た弟さんが、「あの雀は、様子を見に来たのですよ。安全だとわかり、あの雀が合図すると、仲間の雀達がやって来ますよ。」と解説してくれました。
 その通り、しばらくするとその雀が後ろの方を振り返ると、それが「安全」の合図だったのか、30羽ちかくの雀達が一斉に飛び降りてきて、すかさず米粒を食べ始めたのです。あまりにもおいしそうに食べますので、私は興味があり、ガラスの内側から観察しておりますと、弟さんが、「感心なことに、雀達は米粒の周りから食べますよ。」と、また解説してくれました。
 見ていますと、なるほど、どの雀も積まれた米粒の周りから順序良く食べています。ときどき、一斉にパット飛び上がりますが、それは近くを自転車が通るからで、また、1羽の先兵となる雀が降りてきて、先程と同じようにに合図をすると、また一斉に仲間の雀達が飛び降りてくるのです。
 何回か、この動作を繰り返し、やがて雀達は米粒を全部食べてしまい、その間約20分かかり、その一部始終を観察したのですが、まるで子供の時に帰ったような気になりました。
 弟さんの説明によりますと、約1年前から雀達に米粒のエサをやるようになったのですが、今ではこれが唯一の楽しみになっているそうです。仲の良い兄弟の優しい気持ちが私にも伝わり、なぜか私までほのぼのとした気分になりました。

2003年05月13日

車のコミュニケーション

 私は自動車学校からの帰り、JR山之口駅まで送迎担当者の方達に車で送ってもらっていますが、自動車学校近くのガソリンスタンド前の信号機のある交差点で、こんな光景に良く出会います。
 それは、右折のため対向車の流れを待っていると、私達の車が交差点の中央で止まっているため、後方から進行して来た大型トラック等が左側を通れず、やむなく私達の車の直ぐ後ろで止まっている場合があります。
 すると、対向車のうち、大型トラック等のドライバーは直ぐ、私達の車に「先に右折をして下さい。」という意味のパッシングをしてくれる場合があります。そのとき、「さすがはプロドライバーだな」と譲ってもらったことに大変感謝しますが、このように、車を運転したり、同乗していると、「こんにちは、こんばんは」等と挨拶する変わりに、車のコミュニケーションを図る方法がいろいろあることに気付きました。
 例えば、「ハザード」です。ハザードは、故障等のためやむを得ず、路上に停車する時に使用しますが、ドライバーが使うのをためらうのか、極めて使用頻度は少ないようです。そこで、車のコミュニケーションを図るため、こんな使い方をしたらどうでしょうか。
 車を運転中、携帯電話が鳴り出したら、道路左側に寄り停車する場合がありますが、このような時、ハザードを点ければ、後続車両は、「停車車両」だということが直ぐ判り、追突事故を防ぐことが出来ます。また、高速道路を走行中、渋滞に巻き込まれた時、ハザードを点ければ、後続車両に「渋滞中」であることが判り、追突事故を防げるのではないかと思います。
 さらに、ハザードにはこんな使い方があります。車の合流点で進路を相手の車に譲る場合がありますが、こんなとき、進路を譲られた車がハザードを点けると、「進路を譲ってくれてありがとう」という意味だなということがわかり、進路を譲ったドライバーとしても、何かほのぼのとしたものを感じ、以後の運転もさわやかになることがあります。
 このほか、車のコミュニケーションを図る方法として、「片手を挙げる」ことがあります。私は2年前の夏、レンタカーを運転して北海道内の釧路、旭川、札幌等を走ったことがあります。 そのとき、オートバイが多いことにはビックリしました。そして、そのオートバイ同士がすれ違う時は、どちらからともなく、ドライバーが片手を挙げるのです。その仕草は、挨拶代わりのコミュニケーションだと思いますが、見ていても夏の北海道を表現しているみたいで、実にさわやかに感じました。
 しかし、このオートバイ同士の「片手を挙げて挨拶」するコミュニケーションの方法は、どうやら北海道だけのようであり、もっと日本全国に広がって欲しいと願っているところです。
 運転免許を取得したからといって、直ぐ道路を走れるわけではありません。そこには、交通ルールや交通マナーのほか、車のコミュニケーションを図ること等がありますので、教習生には、その点をしっかり教えてもらうことを望んでいます。

2003年05月21日

愛のビンタ

 体重無差別で柔道の日本一を争う、平成15年の全日本柔道選手権大会は、平成15年4月29日に東京の日本武道館で開催されましたが、宮崎市出身でシドニー五輪男子100キロ級金メダリストの井上康生選手(綜合警備保障)が、史上4人目となる3連覇を達成して見事優勝しました。
 伝統ある柔道日本の長い歴史の中でも、これまで3連覇を達成した選手は、山下泰裕さん、小川直也さん、篠原信一さんのわずか3人です。しかも山下さん等3人は、いずれも100キロを超える体重の選手でありますが、100キロ級で優勝したのは、井上選手が初めてということで、このような体重のハンディがあるにもかかわらず、3連覇したことは、柔道史上に残る素晴らしい出来栄えでした。
 さて、この試合の模様は、テレビでは準々決勝からの試合が放送されておりましたが、放送早々のアナウンサーの口振りからすると、どうも井上選手の戦い振りは、あまり芳しくない模様でした。2、3回戦の試合がビデオで映し出されましたが、日頃見ている井上選手と違い、動きに全くリズム感がないのです。その戦い振りを見て、解説者が、「3連覇がかかっているので、そのプレッシャーがあるのでしょうか。井上選手らしい日頃の動きが全くありませんね。」と説明していました。
 その解説を聞き、内心不安感を持ちながら準々決勝からの試合を観戦していたのですが、それまでの戦い振りとガラリ変わり、非常に動きが良くなり、リズム感も出てきて、日頃の井上選手らしい技の切れが、随所に出るようになったのです。
 その結果、準々決勝では、体重150キロの高山選手を「大内刈り」、準決勝ではこれも巨漢の森選手を見事「背負い投げ」で1本勝ちしたのです。さらに決勝戦では、本年4月6日の体重別選手権大会で敗れたライバルの鈴木桂治選手に対し、これも試合開始3分5秒で、得意の「内股」が炸裂して1本勝ちし、見事に雪辱して王者に輝いたのです。
 解説者の説明によると、2、3回戦はほめられる内容ではなかったのに、準々決勝から決勝までの戦い振りは別人のように変わりましたので、どうしてなのかなと思っていましたが、試合後のインタビューでその謎が解けました。
 インタビューで井上選手は、「初戦から負けたらどうしようという気持ちが先行し、技が掛けられなかった。準々決勝直前、控え室で、『性根を入れ直せ。』という檄とともに、久々に父からビンタをもらいました。あれで開き直られました。」と裏話を披露していましたが、その言葉を聞き、井上選手らしい豪快な柔道に戻った理由がわかったのです。また、新聞紙上では、このときの様子について、「父明さんが鬼のような形相で、康生のビンタを張った。」と表現されていました。
 康生選手が柔道を始めた時の師匠は、お父さんの明さんですが、オリンピックで金メダルを取り、さらに、オリンピックより難しい柔道日本選手権のチャンピオンになっても、やはり、康生選手の精神的な心の「師匠」は、父明さんのようです。アテネオリンピックでも、父明さんの「愛のビンタ」が出るのが楽しみです。

ナンジャモンジャ

 ゴールデンウィーク明け、都城自動車学校に出勤し、事務所のドアをあけた瞬間、中から花の香りがしましたので、事務所内を見渡したところ、カウンター上に紫色と白色の花びらがついた鉢植えの木が置いてありました。
 その花びらを見たとき、その木が「ブーゲンビリア」に似ていましたから、窓口にいた事務員の川本さんに、「これはブーゲンビリア?」と尋ねたところ、「いいえ、もっと長い名前でした。この鉢を持ってきた有田先生から名前を聞きましたが、直ぐ忘れました。アラビア語みたいな名前でしたよ。」と教えてくれたのです。
 昼休みの時間、鉢の持ち主で花好きな有田検定員に、正式名称を聞いたところ、和名は、「マツリカソウ」で、本名は、「ジェランタ・バイオレット・タカラヅカ」という木であると教えてもらいました。なるほど、川本さんが言うようにアラビア語みたいで、何回聞いても直ぐ忘れてしまう名前の木でした。
 さらに有田検定員と珍しい名前の花木について話しているうち、有田検定員から、「ナンジャモンジャという名前の木があるそうですが、校長は知っていますか。」と尋ねられました。お菓子の名前ならそれらしい名前を聞いたことがありますが、木の名前では聞いたことがありませんので、思わず「そんな名前の木はなんじゃ。」と答えたほどでした。有田検定員もまだその木を見たことはないが、「白い花が咲く木」ということでした。
 そんな話をした翌日の朝、ラジオを聞いていたところ、偶然にも「ナンジャモンジャ」という名前の木が話題になっていました。放送は、長崎県の対馬からでしたが、その土地の人の話によりますと、4月下旬から5月中旬にかけ、対馬の北端にある鰐浦地区の山々は、一面まるで雪が降ったように真っ白になるということでした。それは、この地区には、約3,000本の「ナンジャモンジャ」と呼ばれる木があり、その花がこの時期に咲き、その様はまさに見事なものだということでした。
 ラジオから流れてくるその話をうっとりしながら聞いているうち、土地の人が「ナンジャモンジャ」という木の本名を言われましたが、メモしておらず、直ぐ忘れてしまったのです。
 そこで、長崎県の共立自動車学校の中川専務に電話で問い合わせたところ、この木のことは知っておられました。それによりますと、昭和の始めごろ、対馬の鰐浦地区に春先になると「白い花が咲く木」が約3,000本自生しているのが見つかり、国の天然記念物に指定されたそうです。
 この木はモクセイ科で、本名は「ヒトツバタゴ」ですが、土地の人達は、この木のことを「ウミテラシ」だとか、「ナタオラシ」と呼んでいるそうです。これは、花が咲くと直ぐ近くの海まで真っ白に見えることから「ウミテラシ」といい、また、ナタが折れるほど堅いので「ナタオラシ」と呼ばれているのだということでした。
 「ナンジャモンジャ」という名は、木の名前が良く判らないことから、付けられたということですが、想像するだけでも楽しいし、いつか機会があったら、このは名が咲いているところを是非見たいものです。

2003年05月22日

交通安全の大切さ

 春の全国交通安全運動を前に、平成15年5月9日、都城市民会館において、都城地区の「交通安全のつどい」が開催され、その中の行事として、交通事故の犠牲となった家族が綴った「交通安全の大切さ」という手記が、朗読されました。その手記を聞き、私も思わず感動しましたので、その手記の内容を紹介します。
 「私は、10月11日に妹を交通事故で亡くしました。なぜあんなに元気で明るく優しい子が、車に跳ねられて死ななきゃならないのかと思うと、悔しくて涙が出てしまいます。学校では明るくやっているつもりでも、一人になると、妹の笑った顔を思い出して、泣いてしまいます。だって、妹の「お姉ちゃん」という呼ぶ声が、二度と聞けないのだから・・・・。
 一番つらかったのが、私が誕生日を迎えることでした。私は12月3日で15歳になりました。妹が生きておれば今は13歳です。天国では13歳かもしれないけれど、この世では12歳のままです。たった2歳しか離れていなかったのに、三つ半も離れてしまったことを考えると、はっきり言って私は、誕生日を迎えたくなかったなと、涙が出てきました。
 私は皆さんに、そんな思いをしてほしくありません。家族が一人減ったことの悔しさ、悲しみは、一生おさまることはありません。このようなことを防ぐためには、一人一人が交通安全という言葉を大切にすることです。
 私は妹が亡くなって、自転車に乗るのが怖くなり、学校に行くのもやっとです。たまに信号を無視してそのまま渡る人とかを見かけますが、腹が立ってたまりません。事が起きてからじゃ、もう遅いのです。
 私達の学校にも、『並列をしている人がいる』等電話がかかって来ます。私達を良く見てくれているなと、とても感謝しています。それを聞いて私達学生は気をつけて登下校しないといけないと思うし、また、それを実行に移し、交通安全運動を各地域や学校でしないといけないと思います。それぐらいしないと、この東郷から交通死亡事故を減らすことは不可能と思います。自分のたった一つの命を大事にしようと思うなら、一人一人が気をつけ、交通安全という言葉を大切にしていくことが必要だと、私は思います。」
 この手記を書いたのは、県北東郷中学校3年生の草留麻衣さんですが、交通事故によって大切な家族を失った悔しさ、悲しみが素直に書き綴られていました。
 また、手記を朗読したのは、都城地区交通安全協会の女性指導員の徳留さんでしたが、会場が暗くなり、スポットライトを浴びた徳留さんが、手記を静かに、そして切々と朗読し始めると、それまで多少ざわついていた会場もシーンとなり、会場を埋め尽くしていた約1,000名の中には、思わず感動してすすり泣く声も聞かれました。
 そして、徳留さんの朗読が修了すると、会場内からは、大きな拍手が沸き起こりましたので、大会に参加した人達に対しては、草留麻衣さんが訴えた「交通安全の大切さ」が十分伝わったものと思います。
 職員の皆さんも、家族の一人が交通事故の被害者となった草留麻衣さんの訴えを汲み取り、教習等に活かしていただくことを望んでいます。

2003年05月26日

不安感

 飛行機事故の98パーセントは、離・着陸時に発生するといわれ、従って飛行機が無事に離着してしまえば、先ずは一安心というところですが、何回飛行機に乗っても、いつも不安なのは「天候不順による機体の揺れ」です。
 特に気流も変化によっては、飛行機の機体が大きく揺れ、機体からギシギシというきしむ音が聞こえてきた時は、「ひょとしたら、墜落するのでは・・・」と不安感が頭の中を駆け巡り、手のひらに汗をかく時がありますが、職員の皆さんはこんな経験はありませんか。
 平成15年度の九指連大会は、5月14日、沖縄県で開催されましたが、その大会に参加するため、宮崎空港から飛行機に乗ったときも同じような体験をしました。前日から宮崎県地方は雨となり、朝方は大雨洪水警報が出されるほどのドシャ降りで、飛行機の出発が心配されましたが、予定時刻前にはその雨も止み、ホッとしました。
 しかしながら、これまでの飛行体験から「気流の変化で、ひょっとしたら機体が揺れるのでは」という心配がありました。案の定、飛行機は予定時刻に宮崎空港を離陸しましたが、離陸してから間もなくすると、機体は「ゴトゴト、ギシギシ」と小刻みに揺れ始め、機内の乗客も不安感があるのか、シーンと静まりかえっていました。
 すかさず、女性の機内乗務員から「気流の関係で、多少揺れがありますが、ご心配はありません。シートベルトをしっかりお締めください。」というアナウンスがありました。それでも揺れは段々と激しくなり、私も一寸不安になり、読んでいた新聞から目を離し、そっと、周りの様子を伺ってみると、ほとんどの乗客が目をつむったり、ヘッドホーンを付けてラジオを聞いている様子でした。
 さらに、機体が大きく揺れ始めた時、機長からマイク放送がなされたのです。その内容は、「只今機体が揺れていますが、これは奄美大島から沖縄にかけ、梅雨前線が近づき、積乱雲が発生しているからです。これから10分後、さらに揺れがひどくなることが予想されますが、飛行には全く支障がありません。ベルトサインが消えるまで、しっかりとシートベルトを締めてください。」というものでした。
 機長の声は、自分の腕に余程自身があるのか、私には力強い「神の声」に聞こえました。すると、不思議なことに、それまでは機体が揺れるたびに、私の頭の中にあった「ひょっとしたら・・・」という「不安感」がウソのように消えてしまったのです。
 それからは、機体が揺れるたびに、「気流の変化で多少揺れるが、機体は大丈夫だ。」という気持ちになって、精神的にも落ち着き、那覇空港までの約1時間20分は、機内のラジオで大好きな演歌を聞きながら、楽しく過ごすことが出来ました。
 このような「不安感」は、自動車学校における検定試験、中でも仮免試験を受ける生徒さんに見られるときがあります。極度に緊張している様子が、ありありと判りますが、このような時、検定員から「さあ、深呼吸して落ち着いて検定を受けましょう。」と声をかけてやれば、きっと検定員の声が「神の声」に聞こえ、生徒さんから「不安感」が取り除かれて、普段の練習どおり、うまくいくのではないかと思いますが、職員の皆様方の意見はいかがでしょうか。

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