校長のひとり言ブログ|都城自動車学校

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2004年02月 アーカイブ

2004年02月02日

リーダー

 私が住んでいる宮崎市の平和が丘団地は、昭和44年に宮崎県住宅供給公社が開発した土地及び住宅の分譲地で、約1,000世帯の人達が居住していますが、団地周囲が約2キロメートル位あり、私にとってこの周辺道路は、朝夕の散歩にはもってこいのコースとなっています。
 その団地内にある宮崎市立池内小学校の下に、「鳥越池」という池があります。もともとこの池は、明治時代の始め頃、現在の団地下周辺に広がる花が島地区の田圃の灌漑用の溜池として作られたものですが、周囲が約500メートル位あり、年中、満々と水を蓄えています。
 私がこの団地に住み始めた頃は、この池には、フナ、鯉等の在来種の魚がいましたが、今では、ブラックバスやブルーギル等の外来種の魚がのさばり、このことが「ザ・フイッシング」という雑誌に掲載されたせいか、県内外の釣りマニア達が湖面にボートを浮かべ、釣り糸を垂れている姿を見かけるようになりました。
 また、この池には、毎年決まったように12月始めごろから翌年の2月末にかけて、渡鳥のカモ達がやって来ます。ここが禁猟区であると知っているのか、この時期夕方ともなると、湖面が真っ黒になる位、約1,000羽を超えるカモが水面に降りてきて、羽を休めています。
 夕方散歩中にそのカモ達の様子を見ていますと、「ガ-、ガー」等と、さかんに「カモ語」をしゃべっているようですが、おそらくその日の出来事を話しているものと思います。
 毎朝散歩中、その「鳥越池」の脇を通りますが、私が池に近づきますと、必ず池の方から「ピー」というかん高く、そして鋭いカモの鳴く声が聞こえてきます。夕方同じ池で鳴いている「ガ-、ガ-」というのんびりした鳴き声と全く違います。どうやらカモのリーダーが「人間が近づいて来たぞ。危ないから、皆池の中央に集まれ」と他のカモに呼びかけているようです。足音を忍ばせて近づいてみても、やはりその声は聞こえてきます。冬の朝の6時頃といえばまだ薄暗く、池の様子ははっきりとは見えませんが、池周辺に設置されている防犯灯のかすかな明かりで見ていますと、池の端、つまり道路側で泳いでいたカモが、その鳴き声に応じて一斉に池の中央めがけて泳ぎ出していきます。
 その行動は素早く、別行動を取るカモは一匹も見当たりません。まさに一糸乱れぬ行動です。全部のカモが中央に集合する間、リーダーらしきカモがさかんに「ピ^、ピー」と鳴き、他のカモを集めています。その様子を見ていると、カモ達は池の中央に向かって泳いでいますが、いくつかの塊が出来ていますので、どうやらカモ達にはグループがあるように見受けられました。
 このようなカモ達の保身術は、代々親から子へと受継がれたものと思われますが、それにしても見事な「リーダーの統率力」で、毎朝散歩中にこの光景を見るたびに感心しているところです。
 人間世界では、どの職場においても「指示命令の徹底」がうまくいきませんが、この点では、どうやら人間もカモ達に見習った方が良さそうです。

2004年02月09日

感動

 私が毎朝聞いているラジオ番組の中の一つに、生島ヒロシさんの「おはよう一直線」というのがありますが、ある朝、その番組のスペシャリストとして落語家の「桂小金治師匠」が出演していました。
 桂小金治さんは、もともと落語家ですが、テレビが国民に普及し始めた昭和40年代、テレビ番組の司会者として活躍した人ですが、その中でも「それは秘密です」という番組は視聴率が高く、数年間続いた番組だったと記憶しています。
 桂小金治さんは、「ダジャレの小金治」だとか、「泣きの小金治」とも言われる落語家ですが、この朝も生島ヒロシさんが、「師匠、一番短いシャレはなんですか」とマイクを向けられると、すかさず、「川のほとりで人が倒れました。ドテー(土手のこと)」と瞬時に答えられ、聞いていて私も思わず拍手が出たほどでした。
 次に生島さんが、「『それは秘密です』の司会をやっておられて、何か印象に残っていることはありませんか」という質問に対し、小金治さんは待っていましたとばかり、次のような思い出話をされました。
 「それは秘密です」という番組は、例えば何十年もバラバラになった親子を対面させたり、今やスターとなった人が、子供のとき憧れていた人と対面させたりする番組ですが、この番組の係りに「私は70歳を過ぎ、一人暮らしをしている者ですが、実は40年前、酒とバクチに狂い、家族を捨てて家を飛び出してしまいました。何とか死ぬ前に当時10歳だった息子に会ってお詫びを言いたい。」という申し出があったそうです。
 早速係員が相談者と面接し、手分けして探した結果、遂にその息子さんを探し当て、係員が相談者の意向を告げたところ、「今更何を言うのか。飲んだくれの親父のために、残された家族がどれだけ肩身の狭い思いをしたのか、あんた達にはわからないだろう。会いたくもない。殴り殺してやりたい心境だ。」とけんもほろほろの状態だったそうです。そこのところを説得し、ようやく息子さんをテレビに出演させることが出来たのです。
 小金治さんは、息子さんがどのような行動に出るのか心配でしたが、いざ番組が始まると、いきなり相談者の親父さんが土下座し、「お前達には大変迷惑を掛けた。今更許してくれとは言えない立場だが、俺も病気のため、あと幾ばくかの命しかない。せめて死ぬ前にお詫びを言っておきたい。」と涙ながらに言うと、息子さんはしばらく黙っていましたが、やがて土下座している親父さんの所に駆け寄り、いきなり親父さんの肩を抱きしめ、ポロポロ涙を流しながら、握り締めていたゲンコツで親父さんの頭をたたく仕草をし、「親父のバカやロー、なんで俺達を捨てたんだ」と言ったそうです。あれほど親父さんのことを恨んでいたはずなのに、そこはやはり血を分けた親子だったのです。
 それから数日後、その相談者は永年の思いが遂げられ安心したのか、息子さんの手を握り永久の旅立ちをしたそうです。小金治さんは、「このときの親子の様子が今でも忘れられません。感動しました。」と涙ながらに語ってくれました。

2004年02月18日

2年目のジンクス

 今年も2月1日、一斉に日本プロ野球のキャンプがオープンしましたが、宮崎県内では、これまでの巨人、広島、近鉄、ヤクルト(二軍)に加え、今年はダイエーや西武が新しく加わり、なんと日本のプロ野球12球団のうち半数の6球団が集まり、テレビやスポーツ新聞では、「宮崎」という文字が出ていない日はなく、今や宮崎は日本プロ野球の情報発信基地となっています。
 その中で、今年、宮崎県民にとって最大の課題は、昨年日本一となったダイエー球団が、これまでのキャンプ地「高知」から、地元九州である宮崎でキャンプを張ることになったことでしょう。昨年新装なった宮崎市郊外の生目の杜運動公園内の「アイビースタジアム」では、キャンプ初日から大勢のファンが押しかけ、選手達の動きに注目しています。
 先日、私もその「アイビースタジアム」に出かけ、この目で選手達のキャンプの様子を見てきましたが、その選手のうち、私が最も見たかったのは、昨年14勝を挙げ、新人王となった「和田毅投手」です。
 ご存知のように和田投手は、早稲田大学時代、投手として数々の六大学記録を塗り替え、鳴り物入りでプロ野球に入団した選手ですが、昨年は期待通りの活躍をしてくれました。和田投手の凄いところは、打者の心理状態を素早く見抜くこと、つまり「投球術」に長けているところです。打者が「今度はカーブかな」と思っていると、ズバリ直球が来る等、打者泣かせの投手なのです。球速は西武ライオンズの松坂投手のように150キロ台ではなく、出てもせいぜい140キロをわずかに超える位ですが、なかなかバットの真に当たらないのです。
 その和田投手に注目したのは、はたして和田投手に「2年目のジンクス」があるのかということです。昔から日本のプロ野球には、1年目にあれほど大活躍した選手が、2年目になるとさっぱり成績が上がらない場合があるのです。それも「投手」の場合が多く、最近では巨人軍の河原投手の場合があります。
 打者から見れば、新人からコテンパーにやられたわけですから、シーズンオフやキャンプ中、それこそ徹底的に、その新人投手の球種や癖を研究するわけですから、1年目に活躍した投手も、それ以上の努力が必要なわけです。
 早速、投手練習場で和田投手の動きを見てみました。キャンプが始まったばかりですから、全力投球ではありませんでしたが、身体は引き締まっている感じを受けました。
 スポーツ新聞によると、キャンプに入る前、鹿児島県の川内市で、同僚の寺原投手と一緒にミニキャンプを張り、ランニングをして徹底的に下半身を鍛えたということですが、そのせいか下半身がしっかりしている様子でした。
 和田投手は、大学時代から何事にも研究熱心であると言われた人ですが、先日のテレビ放送を見ていると、「昨年の成績に満足はしていません。どのチームの選手も、私のことを研究していますので、新しい球種を会得するため、現在試行錯誤しながら研究中です。」と今年にかける抱負を語っていましたが、和田投手なら「2年目のジンクス」はどうやらないと断言しても良さそうです。

2004年02月23日

手紙

 放送タレントの永六輔さんは、「筆まめ」として知られています。1日に100通、多い時には年4万5,000通にもなるということです。そんなに書けるものかと不思議に思う人があるかも知れませんが、永六輔さんが書く手紙は、ラジオを聞いた人から寄せられた感想に対する返事が殆どで、その手紙の文も「ありがとう」、「お疲れさんでした」等といった簡単な文で、3行ほどだそうです。
 このような手紙を書くようになった理由について、永六輔さんは「手紙を書くことは僕の生き方だから」とこともなげに言われますが、それにしても大変なことです。永六輔さんが、このように手紙を書くようになったのは、少年時代のある出来事がきっかけです。
 それは、永六輔さんが小学生の頃の夏休みに遡ります。担任の先生から便りが来ましたが、永六輔さんは返事を書きませんでした。それを父からたしなめられましたが、永六輔少年は、「遊ぶのに忙しい」と口答えしたそうです。これに対し、永六輔さんの父は、「返事の書けない忙しさは、恥ずかしい忙しさだ」等と懇々と説教したそうです。永六輔さんは、その父の一言をじっと胸にしまって手紙を書き続けているそうです。
 永六輔さんは、電波の仕事を50年続け、今でもTBSラジオの「誰かとどこかで」等で長く活躍されています。その「誰かとどこかで」という番組の最後で、永六輔さんは必ず「お便り下さい」と呼びかけていますが、ラジオ放送を聞いた人から便りがあり、これに返事をしなかったとしたら、この「お便りを下さい」という言葉が、「物乞い」になると考え、手紙を書くことを思いついたということです。
 また、永六輔さんは、「ラジオ放送の中で、話し掛ける相手は目の前に見えませんが、放送を聞いた人から手紙を受け取った時、始めて相手の顔が見えてきます」とも言っておられます。手紙の中には、感謝の便りだけとは限らず、「不愉快だった」という感想もありますが、それでも永六輔さんは返事を書いているということでした。
 永六輔さんは、全国各地から講演を頼まれることが多く、手紙を書く時間がないので、飛行機の中や新幹線の車内で書くときもありますし、喫茶店で人と待ち合わせるわずかな時間を利用し、せっせ、せっせと手紙を書き続けているということです。手紙をもらった人にとっては、「ありがとう」、「お疲れさんでした」というわずか3行の手紙でも、永六輔さんの気持ちがちゃんと伝わっているものと思われます。
 私達の身の回りでも、手紙を書くことを億劫がる人を見かけますが、おそらくその人は、手紙の形式や内容にこだわっているのではないかと思われます。形式にとらわれず、永六輔さん流にそのままの気持ちを素直に言葉に表わせば、その思いが手紙をもらった人にもきっと伝わるはずです。職員の皆さんも、永六輔さんを見習い、さあ今日から手紙を書いて見ましょう。

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