傷ついた言葉
平成12年8月、満60歳になった者が集い、「還暦同窓会」を開きましたが、その際、幹事役の人達が苦労して作成した「同窓会名簿」が、今私の手許にあります。
その名簿には、同じ中学校を卒業した約300名の同窓生の名前や住所が記載されていますが、なかには病気や交通事故等で既に物故者となった人も数名含まれています。その中で、ただ一人住所の欄がポツンと空欄になった人がいます。その人の名前は「O君」です。「O君」は中学校卒業以来、十数回開催された同窓会には1回も出席したことがなく、彼の消息を知っている同窓生は誰もいないようです。
「O君」は私の直ぐ近所に住んでいた関係で、小学校に入学する前から一緒に遊んだ友達でしたから、彼が何故、同窓会に出席せず、また現住所も同窓生に明らかにしないのか、その原因を私は知っています。
それは中学校2年生の時、授業中に先生から「傷ついた言葉」を浴びせられたからです。私達の中学生時代には「職業・家庭」という授業科目があり、6クラスのうち2クラスが一緒になり、男子生徒は「職業」、女子生徒は「家庭」の授業をそれぞれ受けていました。その「職業」の授業時間の中で、「親の職業」という項目があり、先生から指名された生徒は、次々に自分の親の職業を発表していました。私が住む地区は、宮崎市の郊外にある農村地帯でしたから、約8割の親の職業は「農業」でした。
ところが、「O君」の順番になり、「O君」は立ち上がると、「自分の親の職業は鉄関係の仕事をしています。」と発表したのです。すると先生の口からは「何、鉄関係の仕事?お前の親父はボロ屋じゃねっとか」という、およそ先生らしからぬ言葉が返ってきたのです。その先生はその当時30歳位の男子教諭で、陸上部の顧問をしていましたが、どちらかと言えばぶっきらぼうなものの言い方をする先生でした。
この先生の言葉には、思わず生徒達の中からドッと笑い声があがりましたが、私には笑えるどころか、「O君」が気の毒になったのです。それは「O君」は在日朝鮮人の二世でしたが、彼のお父さんは、太平洋戦争前、朝鮮から日本に強制連行された人です。
戦後、私達の住む地区に転入し、掘っ建て小屋みたいな家に家族5人で住み、鉄屑等を集めたり、また買い取る仕事を細々としていたのです。私達も子供時代、このような仕事をする職業のことを「ボロ屋」と呼んでいましたが、「O君」にとり、自分の親の仕事を「ボロ屋」と呼ばれていることが、子供心に「恥ずかしい」と考えたのか、「鉄関係の仕事」と言わしめたものと思います。
先生からすると、ほんの軽い気持ちで言われたかもしれませんが、「O君」にとり、先生の「ボロ屋だろう」と言われた言葉は、おそらく心にグサッと突き刺さる「傷ついた言葉」であったものと思います。その証拠に「O君」はジッと下を向いたまま顔を上げようとせず、必死に涙が出るのをこらえていたからです。
「O君」にとり、先生が軽い気持ちで言った「ボロ屋だろう」の言葉は、少年の心を深く傷つけたものと思います。おそらく「O君」の心の中から一生、取り除くことが出来ないでしょう。同窓会名簿を見るたびに、あのシーンが思い出されます。






