相撲
私が生まれ育ったのは、宮崎市に隣接する本庄町(現在合併して国富町)ですが、ここは、昔から相撲が盛んなところで、夏祭りでは奉納相撲があり、私も子供の頃、商品のノートや鉛筆をもらうのを目的にして出場した思い出があります。また、私が通った本庄小学校の創立記念日は2月25日ですが、この日は、記念行事として男子生徒が全員参加しての相撲大会が行われていました。終戦直後で、娯楽行事がなかった時代にこのように「相撲」が盛んだったのは、おそらく、巡業のため、現役の大相撲の力士が本庄町にやってきて、小学校の運動場に設けられた土俵上で、生の相撲を見せてくれた影響だと思います。毎年、11月か12月ごろには巡業があり、テントを張り巡らした会場には、大勢の人達が有料で入場し、ひいきの力士に大声援を送ったものです。私も父や兄達に連れられて見物をしましたが、今でも脳裏に残っているのは、横綱の照国関、羽黒山関、吉葉山関、プロレスラーになった東富士関や大男の大起「(おおだち)関等ですが、その中でも後に横綱になった千代の山関の相撲振りには、子供ながら憧れたものです。当時、千代の山関はまだ序二段か三段目位でしたが、ひょろっとした身体ながら、強烈な突っ張りと鮮やかな上手投げには目を見張るものがあり、その相撲振りを見て、私は千代の山関の大ファンになったものです。
さて、その「相撲」の起源ですが、日本書記によりますと、西暦360年ごろ、垂仁天皇の前で、力自慢を自負する野見宿禰(のみのすくね)と当痲蹶速(たいまのけはや)が対決した記事があり、これが「相撲」の始まりだとされています。この時の決闘はデスマッチであり、当痲蹶速(たいまのけはや)は肋骨が折れて死亡し、勝った野見宿禰(のみのすくね)は、土地を与えられその後天皇に仕えたということです。野見宿禰については、こんな逸話があります。それは、当時、貴人、いわゆる偉い人が死去すると、生前付き従っていた人々は殉死する風習があり、それを見かねた野見宿禰は、土で作った人物や馬を生きた人に変えて古墳の周りに立て並べてはどうかと天皇に進言し、これが制度として採用されましたが、この土で作った人や馬が「埴輪」だということです。
この「相撲」は、日本固有の宗教である神道に基づいた神事であり、沖縄地方を始め日本各地で「祭り」として奉納相撲がその地域の住民により現在もおこなわれていますが、健康と力に恵まれた男性が神前にその力をささげ、神々に敬意と感謝を示す行為です。そのため、礼儀作法が非常に重視され、力士はまわし以外は身につけないとされ、その名残は現在の興行形式である「大相撲」にも見られており、皇室との縁は深いといわれています。天皇陛下が「大相撲」をご覧になられたとき、報道では「天覧相撲」と表現していますが、それはその名残からだということです。
現在の大相撲の原型は、江戸時代の始め頃に出来た相撲興行組織ですが、その後明治時代を経て、大正14年(1925年)に公益法人の「日本相撲協会」が設立されて現在に至っています。その間、相撲史上では、相撲ブームとしては、栃錦と初代若乃花の栃若時代、大鵬と柏戸の柏鵬時代、若乃花と貴乃花兄弟の若貴ブーム等がありましたが、最近は、横綱朝青龍の言動問題や外国人力士の犯罪等で、ひところのブームが過ぎ去り、やや落ち目の状況にありますが、ここは一つ、力士を始め相撲協会が「相撲」の原点に立ち返り、立合い等礼儀作法を重視した取り組みを行って、再び、「相撲ブーム」が来ることを望んでいます。



